イワタニ・プリムスに関わる人々の「声」をお届けする『Real Voice』。2人目にお話を聞いたのは、2017年に平出和也さんとともにシスパーレ北東壁を初登攀し、ピオレドール賞を受賞したアルパインクライマー中島健郎さんです。今回もインタビュアーに山岳ライターの柏澄子さんを迎え、中島さんの素顔に迫りました。登山を始めた幼いころのきっかけから、これから目指す登山まで充実のインタビューです。
ヒマラヤの8000m峰で麦わら帽子をかぶり、プロ登山家・竹内洋岳さんが登る姿にカメラを向ける。平出和也さんの4度目のシスパーレのクライミングパートナーとして、氷雪壁を登る。その様子はテレビ画面にまで映し出された。タレントのイモトアヤコさんの挑戦に同行する様子は、中島さんのひょうきんな笑顔がイモトさんのSNSにアップされる。「24時間テレビ」で登山に臨む方をサポートし、大きなザックをダブルボッカしたり、ときには人を担いだり、そんな様子もSNSを賑わす。
どれも、中島健郎さんの素顔だ。目を細めて笑っていたり、困難な登攀や空気が希薄な高所の環境に苦しめられ、顔をしかめているときもある。表情はそれぞれだけれど、誰とどこにいても、同じようなスタンスだ。中島さんは変わらない。
そんな中島さんの素顔に、もっともっと迫るべく、今回は、彼のスタンスを崩すことを試みました。
中島 ひとことでいうと、「使えるものかどうか」ということです。それは、行く山や登るスタイルによって変わってきます。僕の場合、長い登攀のなかで起こりうる様々な場面において、つねに使いやすいかどうか、考えます。そのためには、シンプルであることが重要だと思います。最近は、ドイターの「グラビティ エクスペディション」を使っていますが、これは軽くてシンプルな点が、僕の登山に合っています。
それと、長く使い続けることができる装備がいいですね。僕が本格的に登山を始めるのは、関西学院大学山岳部に入ってからです。アルバイトはしていましたが、学生の身でお金があったわけではありません。だからこそ、買う前にじっくり考えました。多少高価であっても、長く使い続けられる方がいい。結局そのほうがリーズナブルだったりします。
山岳部に入って初めて買った大型パックは、大学4年間使い続けたし、当時のアックスは今でも使っています。どんどん新機種が出てくるなかで、もっとアイスを登りやすいアックスもありますが、強い傾斜のアイスセクションなんて、ひとつの山全体からみたら、ごく一部です。ダガーポジション*で登っているときがほとんど。だったら、オールマイティな1本があれば、充分なんです。材質がカーボンで冷えが伝導しにくいことや、バランスがいい点もよいですね。
中島 僕の登山の原点は、父親にあります。
生まれは、奈良県のいなかです。自宅から少し歩けば小さな里山があるようなところで、父に連れられて、登っていました。登山道がよく整備されていて、階段もありましたね。30分から1時間ぐらいで山のてっぺんです。
じつは、この頃のことを僕自身がしっかり覚えているわけではないんです。母や姉たちから話を聞き、思い出として残っているだけなんです。
父は、僕が3歳のときにがんを患い、1年半後に亡くなりました。父の顔はぼんやりしか覚えていないし、どんな声をしていたのかも、思い出せません。けれど、父に手を引かれ登った裏山が、僕の登山の原点であり、自然を好きになり、将来登山を始めるきっかけだったと思っています。
父が亡くなったあと、奈良の家から、大阪の祖母の家に引っ越すことになりました。幼稚園の年長から小学校、中学校とそこで暮らしました。住宅地であり、奈良のときのような里山があるわけではありませんでした。毎年キャンプに参加していましたが、自然から少し離れてしまった感覚が、子どもながらにありました。
それでも、今度は母が山に連れていってくれました。父と母は美術学校で知り合うんです。ふたりとも絵描きであり、奈良にいた頃は、工房で版画の刷り師を生業とし、そのかたわら自分自身の作品を描いていました。たまに個展もやっていたようです。父は、高校のときにワンダーフォーゲル部に入っていたそうで、母と知り合ってから母を山に連れていくようになるんです。穂高にも登ったと言っていました。
母はわからないながらも、僕を山に連れていってくれたんですね。けれど、あれは小学生のときでしたが、山に登ったらいきなり雪が積もっていたなんてこともありました。雪面はカリカリで、ほかの登山者からアイゼンを借りて登りました。大阪の金剛山です。いま思えば、めちゃくちゃだったけれど、そういうのも楽しかったです。
母の話によると、父は自分の好きなことをやっていて、何があってもどうにかなるって考える能天気なところがあったようです。そんな性質は、僕自身が受け継いでいますね。僕は、父のことをもっと知りたくて、父がやっていた山登りというのは、いったいどういうものなのか、やってみたくなったんです。その頃、滋賀に引っ越します。
近くには比良山があったけれど、周りに本格的に山を登る人がいなくて、どうやって登ったらよいのか、わかりませんでした。ひとりではどうしてよいのかもわかりません。高校には山岳部もなかったし、山の登り方を知らなかったんですよね。
自分の意思で山に登るようになったのは、大学に入ってからです。
中島 関西学院大学の山岳部に入部しました。父は岩登りもやっていたので、そうなると選択肢は山岳部しかありません。
僕が入部したとき、先輩がふたりいましたが、ひとりは山に登っていなかったので、実質的にはひとりでした。そこに同級生が5人入り、たいへんなことに。最終的には辞めてしまう部員もあって、卒業まで在籍していたのは2、3人だったかな。登山ブームでもなんでもない時期ですよね。けれど、たとえ山ガールブームがやってきたり、いまみたいにボルダリングジムが普及しても、それが山岳部の部員数増加には直接は結びつかないと思います。ひょっとしたら部室に見学に来る人はでてくるかもしれないけれど、山岳部で登るかというと、それはまた別の話。大学山岳部というのは、世の流れとかブームとは、無関係なところにあるのだと思います。
部員は少なかったけれど、関西には大西保さんや奥田仁一さんという先輩たちがいたことが大きかったですね。奥田さんは、僕たちが学生の頃、ちょうどネパールから帰国して、Mt.石井スポーツの店頭にいらっしゃいました。道具の相談もできたし、ネパールの話も聞けました。大西さんには、未踏峰のことをたくさん教わりました。ネパールヒマラヤの未踏峰リストをみても、最初は何もわからないんですよね。大西さんは自分でネパールヒマラヤの地図を作ってしまうような人ですから、とても詳しいです。地図やリストの見方も教えてもらいました。それで、「ここだったら、自分たちでも登れるのではないか」という山を選んでもらったんです。それに、大西さんが代表を務めていた大阪山の会の方々とは、山にも一緒に登ってもらい、学ぶことがたくさんありました。
それらのことが結実して、2006年の秋に、ネパールの未踏峰であった パンバリヒマール(6887m)に登頂できました。これは、国立登山研修所で一緒に講習を受けた仲間達と行きました。大学も住んでいる場所も、てんでばらばら。けれど、何度も講習で会うなかで、話が持ち上がったんです。こうやって校外にも仲間ができたことは、大きな刺激となったし、研修所で学んだことは、たくさんありました。自分たちで計画し、自分たちだけで登頂できたことがよかったですね。
それで、今度は自分の大学の部員たちだけで行ってみようと、翌年春には、再びネパールヒマラヤにいました。この年は偵察程度に考えてはいたのですが、思いがけずにいい線までいけました。翌年、2年後輩の山本大貴(イワタニ・プリムス スタッフ)も交えて再訪したときに、ふたりで登頂しました。これもネパールの未踏峰、ディンジュンリ(6196m)という山です。
中島 学生時代に3回ヒマラヤへ行き、2つの未踏峰に登頂しました。さらには大阪山の会の方々と一緒にツラギ(7059m)というネパールの未踏峰にも登りました。登頂することはできなかったけれど、僕にとって初めての7000m峰であり、いい経験になりました。
このまま山登りを続けたい、けれどお金も稼がなければならない。そう考えたとき、(株)ウェック・トレックに行きあたりました。ウェック・トレックは、山岳地域の旅行や登山、取材や撮影などのコーディネートやコンサルタント業をしている会社です。僕は学生時代の遠征の頃から、ここで衛星電話を借りていました。それでレンタルしていた衛星電話を返却しようとウェブサイトをみたら、社員を募集していたんです。思い切って応募してみたところ、採用してもらうことができました。いまのように山岳地域での撮影を本格的にやるようになったのは、退職してからです。けれどそれも、ウェック・トレックからいただく仕事が多く、以前の同僚の方々と一緒に仕事をしています。
中島 とてもおもしろく、やりがいをもっています。
プライベートで登るのとは全く違いますが、人それぞれに山との関わり方があるのだということを知りました。色んな発想、アイディアで山に登っていることが興味深いです。
撮影が面白いのは、ファインダー越しにその人の素顔を見ることができる点です。その表情は、山でしか見ることができません。街ではわからないでしょう。一緒に山に登って、皆それぞれ必死だからこそ、見せてくれる顔です。竹内洋岳さんや平出和也さんのように、一流の登山家、プロの人たちであっても、必死です。トランスジャパンアルプスレースのような大会を撮影することもありますが、彼らも自分たちの限界をプッシュしているわけです。バラエティのテレビ番組は、前述の彼らとは違いますが、それでもタレント、芸人の人たちも、一所懸命山に登っています。その表情は、街で付き合っているだけでは、ぜったいにわかりません。山だからこそ、わかることなんです。彼らのそんな登山を支える仕事を、おもしろく思っています。
僕たちが撮影した映像や写真は、誰でも行けるところではないので、出来上がったものを観て、みんなが共感してくれれば、うれしいです。そういう気持ちがあるからこそ、仕事をやっているのだと思います。そうでないと、過酷な条件下でカメラを回すなんて、面倒でやっていられないことですよ(笑)。
中島 2013年の夏に、パキスタンにあるK6(7282m)に行きました。今井健司と宮城公博と一緒です。海外の高峰で、バリエーションルートのアルパインスタイルの登攀は、これが初めてでしたが、かなりいい線までいったんです。だから、登れなかったことが、すごく悔しかったです。しかも、僕たちが敗退した1週間後にカナダ人チームが登ってしまったので。健司たちとは、また一緒に登ろうと約束していましたが、つぎの夏は政情不安定で、パキスタンでの登山は見送り。そんなこともあり、健司がひとりでチャムラン(ネパール、7319m)へ向かい、結局還ってこなかったんです。だから、僕たちのパキスタンでのクライミングは、いったん立ち消えてしまいました。
昨年は、平出さんとシスパーレ北東壁を初登攀しました。15年前に目をつけて以来、4度目の挑戦だった平出さんと僕とでは、最初はモチベーションが違いました。これは、当然のことですよね。けれど写真を見ると、かっこいい山で、行く価値があると思いました。アルパインクライミングのパートナーというのは、そう多くいるわけではないので、こういう機会があれば、大切にしたいんです。平出さんの誘いにのりました。登れるかどうかは、実際に行ってみないとわからない、現地で考えようと思っていました。
実際にシスパーレを目の前にして、これは可能性があると思ったし、登ってみたいと強く思うようになったんですね。だからこそ、登れたんだと思います。人に誘われただけでは登れませんし、もし、それで登れてもあんまりおもしろくないですよね。
シスパーレのような登山には、危険があります。なにか間違えると死んでしまうかもしれない。街中にも交通事故があるけれど、すぐに死ぬとは思わないですよね。けれどこういう登山をしていると、死はもっと近くにあるんです。しかし、そういうなかで登っていると、生きている実感を強く感じられ、何より登っていて楽しいです。それに、達成感も大きい。
平出さんとは、K2西面も考えていて、今年の夏、偵察に行ってきました。壁全体を見渡すことはできなかったのですが、まだ僕たちには早すぎるかもしれません。もう少し段階を踏んでいこうと思います。
中島 誰も登ったことがないところは、やっぱり魅力的です。情報が少なく、イチから自分たちで選択していかないと、前に進めません。いちどでも誰かが登ったことがあれば、たとえその人と自分の実力がかけ離れていようが、「登れる」ことが証明されているわけです。自分自身が登れるかどうかは別問題ですが、それでも登れることはわかっています。一方で、誰も登ったことがないというのは、登れるかどうかわからない、まったく未知の世界です。それは、いちどでも誰かが登ったルートとは大きく違います。
僕が大学3年生のとき、山本と登ったディンジュンリからは、いい山がたくさん見えたんですよね。写真ではなく、自分が登った山から眺めた景色、そのなかにあった山に惹かれて、登ることができたらいいですよね。ディンジュンリからは、メンルンツェ(7181m)やガウリシャンカール(7134m)といった秀峰も、さらにはその手前には無名であっても美しい6000m後半から7000m峰がたくさんありました。けれど、山頂まで登らないと見えなかったのが、メンルンツェとガウリシャンカール。いまは、このあたりの山に登ってみたいですね。
山本、一緒に行こうよ。
中島健郎(なかじま・けんろう)
1984年生まれ。奈良県高取町出身。
関西学院大学理工学部入学し、山岳部に在籍。学生時代にネパールの未踏峰2座に登頂する。大学卒業後、プロ登山家竹内洋岳やイッテQ登山部にカメラマンとして参加。個人の山行を行いながら、高所登山をメインとした映像、スチル撮影も手掛けている。
登山写真提供:中島健郎氏
インタビュー・執筆:柏澄子
インタビュー撮影:ハタケスタジオ/かねだこうじ